|
9.女の腕相撲
三木史郎四回生。神戸出身の二十二才である。痩せていて背が高く、坊ちゃん刈りをしている。性格は一見おとなしそうであるが、何を考えているのかわからないところがあった。友達もあまり作らない。一匹狼的な存在であった。そんな彼のニックネームは「後家さん」であった。彼の雰囲気とは似つかわしく無いこのニックネームは、彼が二十八才になる脇田和江という後家さんと付き合っていたからであった。
脇田和江は、二十三才の時に見合いである男と結婚をした。ハネムーンにハワイへ一週間行ってきた。その間に何も無いまま帰って来た。新居は実家の隣に新しく建てた。夫は、実家で毎晩テレビを夜遅くまで見ていて、寝る頃になって新居の方にやって来た。そして、すぐに一人で寝てしまった。そんな訳であるから、夫婦生活というものが無かった。変に思って、和江は両親に相談した。両親は、仲人を通じて夫の両親に言った。しかし、二ケ月たっても何も起こらなかった。諦めた和江は、その家を出てアパートに引っ越したのである。もちろん夫は、何のためらいもなく離婚届けに判を押した。
三木史郎が脇田和江と知り合ったのは、彼がアルバイトに行った先のスーパーであった。脇田和江はそのスーパーで事務をしていた。出会った瞬間、お互いに通じるものがあって、どちらともなく会話を交すようになった。そのうちにだんだんと親しくなり、三木が和江のアパートに遊びに行くようになり、当然の成り行きで二人は男女の仲になった。一年ほど、三木は毎晩和江のアパートに通った。この事が和江の両親の知るところとなり、二人は和江の両親に呼ばれることとなったのである。
「三木史郎と申します。よろしくお願いいたします。」
「もちろん今日は和江のことで来てもらった。君は和江をどうするつもりなんだ。学生時代の遊びと考えているのか。」
「いえ、決して遊びで付き合っている訳ではありません。確かに和江さんは自分より年上です。しかし、お互いの気持ちは年齢の差を少しも感じていません。」
「しかし、君はまだ学生だろう。来年社会人になるといっても、すぐに所帯を持つという訳にはいかんだろう。」
「お言葉を返すようですが、和江さんは二十八になっています。私が一人前になるまで待っていただくつもりはありません。来年しかるべき企業に就職して、和江さんと結婚したいと考えています。」
「それでは和江の苦労は目に見えている。和江に苦労させる訳にはゆかん。すぐに別れてくれ。我々は迷惑だ。」
「和江さんとはすでにその約束を交しています。後には戻れません。」
「くどい。別れろ。これがわしの命令だ。どこの馬の骨か知らんが、人の娘を勝手にもて遊んで、本来ならば、貴様は、ここでどのようにされても文句は言えんのだ。」
「もちろん、その覚悟はしてきました。」
そう言うと、三木史郎はかたわらにあった風呂敷包みをおもむろに開くと、なかから鉈を取り出した。刃渡り三十センチで、いかにも切れそうである。テーブルの上に置かれると、このような刃物は一段と凄味があるものであった。それを、父親の目の前に置いた。出された物が物だけに、父親は目をむいた。
「それほど和江さんと自分の結婚に反対されるのならば、仕方ありません。」
「き、君。こんなものを出して脅そうというのか。」
父親は腰を引いて怒鳴った。
「いいえ、私はどのようにしてでも和江さんをいただきたいと思っています。ですから、和江さんをいただく替わりに、自分の腕を一本置いてゆきます。たいした腕ではありませんが、自分には彼女と引き替えにできる物はこんなものしかありません。この鉈でお父さん、好きなだけ自分の腕を切って下さい。」
そう言って、腕をまくって、父親の方に差し出して、目をつむった。これを今まで黙って見ていた母親が、言った。
「父さん、命懸けで和江をほしいと言ってらっしゃるのよ。お父さんが、私にこれだけのことを言ってくれたことがあるかしら。」
母親の一言で、とうとう父親は折れた。和江を幸せにするよう約束をさせて、二人の結婚を許したのであった。その日、二階で事の成り行きを待っていた和江と、祝の契りを交したという話であった。しかし、真相は本人しか知らない事なので、一応信じるしかなかったのである。
その後、晴れて許された和江は、堂々と寮に出入りするようになった。渋い着物姿で現われると、そのまま三木の部屋に直行した。しばらくすると、手をつないで仲良く出かけて行った。寮生が面白がって、「後家さん」と声をかける。にこにこ笑って、手で答える和江であった。
内田一夫の趣味は音楽であった。それもクラシックが大好きであった。ターンテーブルと、スピーカーなどが一体となった、旧式のレコードプレーヤーを持ち込んでいた。そして、何枚しかないレコードを繰り返し聞いていた。あまりに何回も聞いたので、傷だらけになり、時々針が跳んだ。寮生は経済的には恵まれない者が多かったが、反面文化的な欲求が強い者が多かった。もちろんステレオなどを持っている者はいなかった。そこで、電気科の学生などは、手作りのステレオを作った。せっかく作るのだから、出力の大きなものを作ろうということで、FM放送局にアルバイトにいって、業務用の巨大な真空管を失敬してきて制作するという、手の込んだことをした。大きな音を出せるのは、食堂くらいしかないから、日曜日などにそのステレオを使って、レコード鑑賞会なるものを開催した。しかし、さすがに専門課程の学生であった。素晴しい音質と音量のシステムであった。ところが設計のミスもあった。長時間かけていると、例の巨大な真空管から火花が散って、煙が上がり、壊れてしまうのであった。
内田一夫は、音楽趣味の寮生と交流するようになった。そんな先輩の中に学生オーケストラの団員がいて、誘われて入団することとなった。性格がおとなしいので、ビオラがいいといわれた。バイオリンよりも一回り大きくて、音域は人間の声によく似た楽器であった。もちろん、このような弦楽器に触れるのは初めてであった。同じパートに、近藤恵美子という、工学部の一回生が入団してきた。この頃、工学部の女性は珍しい存在であった。彼女は、四才の時からバイオリンを習っていて、かなりのレベルではあったが、オーケストラに入団すると、何か違った楽器をやりたいと希望して、ビオラを選んだのであった。もちろんすぐに弾きこなすことができたのである。
近藤恵美子は、大阪市の出身で、父親が設計事務所を構えているから、その影響で、将来設計士をめざしていた。そのために、建築学科に入って来たのであった。身長百七十三センチの長身の美人であった。しかし、この頃流行っていたミニスカートをはかずに、膝が隠れる程度のスカートをはき、靴はローヒールという学生らしい雰囲気の女性であった。無口で感情をほとんど顔に出さないが、芯の強いところがあった。
オーケストラの合奏練習は、週に一度音楽科の教授が指揮棒を振った。まだ弾くことのできない内田は、先輩の横に座って勉強するのであるが、近藤恵美子はすぐに合奏に参加した。教授がいろいろ注文を付けるが、納得がいかないと、教授に実際に弾いてこの方がいいのではないかと聞くのであった。一回生で入団したての近藤がこのように教授に聞くのは稀であった。先輩の中には面白くない者もいた。合奏練習が終わった後、先輩が生意気だということで、他の事で難癖を付けて来た。しかし、一歩も引かない近藤恵美子であった。
毅然とした態度の近藤恵美子を、内田一夫は好感を持つようになった。当然同じパートであるから、話す機会も多くなる。次第に親しくなり、近藤恵美子が新しいレコードを買ったというので、寮に誘ったのであった。
「寮長、オケ(オーケストラのこと)で同じパートの近藤です。一緒にレコードを聴きたいのですが、よろしいでしょうか。」
「ああ、いいぞ。クラシックか。」
「はい、いつも飽きるほどかけているのとは違います。」
「そうか、それなら俺にも聴かせてくれ。クラシックはわからんから、説明してくれ。」
近藤恵美子が、珍しく緊張して説明する。
「これは最近ドイツで録音されたフェルベルトフォンカラヤンという指揮者の演奏です。曲目は、ベートーヴェンの第五番交響曲で有名な『運命』です。」
「ああ、それなら俺も最初だけ知っている。じゃじゃじゃじゃんーというやつだな。」
寮長が指揮者の様になって言うので、指を差して笑う近藤であった。近藤の緊張がとれてきた。
「これまでの優れた演奏と言われてきたフルトヴェングラーの演奏とは、そのスピード、曲想が全く違うのです。私も初めてFMで聴いた時には、こんな演奏があったのかと感激して、すぐにレコードを買いに行きました。とても現代的で、生き生きしていて、すばらしい演奏です。」
モデルにでもしたらどんなにかいい女だろうと思われる恵美子であったが、まるで子供が流行りの玩具を手にした様に嬉しそうに言うのであった。寮長は、そんな恵美子に好感を持った。
そんな事があって、内田と寮長はよくしゃべるようになった。話題はもちろん音楽のこともあったが、近藤恵美子の一回生にはない毅然とした性格や、人柄のこと、そして、いろいろな噂話しにまで及んだのである。そして、近藤恵美子も寮にやって来るのを楽しみにしている風で、内田が誘うと必ずやって来た。例の後家さんもかなりの美人であったが、近藤恵美子は、スタイルもよく、現代風の顔立ちでよく目だった。そんな美人が寮に出入りするものであるから、当然周囲が騒がしくなった。もちろん、地獄耳の金田先輩が聴き逃すはずがない。
「寮長いるか。この部屋にすごい美人が出入りしていると聞いた。一度紹介してもらいたい。来たら必ず俺に声を掛けてくれ。頼む。」
そんな事を言って、寮長に手を合わせた。
「しょうがないですね。あれは内田の彼女ですから、手を出したら駄目ですよ。」
「わかった、わかった、ちょっと挨拶するだけだから。」
内田一夫は、オケの練習で近藤に、同室の寮長の事をよく話した。今まで自分が知っている中では一番男らしい男であるとか、これまでに聞いた寮長の噂話などをした。もちろんそんな話の中に、キャバレー飛鳥のB子という女性が、寮長の彼女であるという話もあった。
「すごい人ね、寮長って。そんな寮長の彼女のB子さんもきっと素晴しい人なんでしょうね。」
「さー、僕はまだB子さんに会っていないからわからないが、おそらくそうだろうな。」
「内田君、一度寮長に頼んで、その何とかと言うキャバレーへ連れて行ってもらいましょうよ。」
と、近藤恵美子が目を輝かせて言った。そんな会話があって、数日後に寮に訪れた恵美子が話を切り出した。
「寮長、お願いがあるんですが。」
「何だ。」
「実は、寮長が常連になっているキャバレー飛鳥に連れて行ってもらえませんか。私、キャバレーってどんなとこか知りたいのです。」
「ほー、それはまた。行かん訳でもないが、君が行っても面白くも何ともないぞ。」
「そんなこと行って見なければわかりませんわ。」
「まあそうだが。ああいう所の会話は、下ネタばかりだからな。」
「何ですの、その下なんとかと言うのは。」
「平たく言えば助平な会話だよ。」
「かまいませんは。でも、高いんでしょ。」
「まあ、キャバレーといっても、学生が行ける所だから、若い女の子がいる飲み屋といったところだ。本格的なキャバレーになると、ショーがあって、豪華な設備で、女の子もそれなりの美人を揃えている。そんな所はとても学生は行けない。キャバレーにもいろいろあるということだ。新街には他にもっと面白いところがあるぞ。ネグリジェバーだろ、ノーパン喫茶だろ、おさわりバーに、・・・・・」
「寮長も、そんな助平な所に行くの。」
近藤恵美子が顔を赤くして言う。
「あはははは、あるという話だ、話だよ。とにかく社会勉強だから行って見るか。早いほうがいいだろう。内田、近藤の帰りは送って行け。」
「はい、わかりました。」
内田は嬉しそうであった。
キャバレー飛鳥は、新街の通りから細い路地を入った所にあった。飛鳥という名前は、ママが奈良県出身であったことから付けられたという話であった。店の作りも、シルクロードの雰囲気を演出していて、この当時としてはなかなか洒落た店であった。寮長が行くと、姿を見つけてB子が跳んで来た。
「あら、寮長いらっしゃい。今日は早いのね。」
「ああ、連れがいる。」
「おや、女の方。珍しいこと。」
入り口に背の高い恵美子を見つけてB子は一瞬顔が引きつった。
「寮長、すごい美人ね。ね、あなた誰?」
B子は女の直感から強い調子で尋ねた。
「近藤恵美子といいます。寮長には日頃お世話になっています。よろしく。今日は寮長に無理を言って連れて来ていただいたのです。わたし、こういう所初めてなものですから。」
「そう、よくいらっして下さいました。どうぞ。」
そう言ってボックスに案内するB子であったが、内心は落ち着かない。
「ねっ、寮長、恵美子さんとは本当はどんな関係。」
「本当も何もないよ。近藤は内田の彼女だ。同じオーケストラの団員で、俺の部屋によく内田を尋ねてくるので、親しくなったのだ。」
「寮長、近藤とはそんな関係ではありませんよ。近藤が気を悪くしますよ。」
「まあ、固いことを言うな。ここではそういう事にしておけ。あはははは・・・」
B子は、将来起こるべき事態を、この時に察知しているかのように、憮然としていた。雰囲気を察知して、みっちゃんが寄って来た。
「まあ、よかったわね、B子。」
B子の肩をポンと叩いて言った。
「でも、B子、あの娘だったらあんたには勝ち目ないな。」
「ふん、なによ。まだ青いじゃない。」
「ばかね。男って、青い女を熟させるのが好きなのよ。」
小声でB子に笑いながら言った。
「寮長、何にします。」
「そうだな、俺はビールでいいが、内田と近藤は。」
「僕もビールでいいです。」
「私はハイボール。」
「あら、いけるくちなのね。」
「近藤、酒を飲んだことがあるのか。」
「はい、父親がよく飲みますので、私も時々失敬していました。意外にお酒に強いみたい。父親に似たのかしら。」
「ほー、これは豪傑だな。」
愉快そうな寮長であった。面白くないのがB子であった。
「私もハイボール頂いていいかしら。」
「おお、飲んでくれ。」
B子と恵美子の目が合った。一瞬火花が散ったような雰囲気になった。そこへ三人組の男達が威勢よく入って来た。
「あら、山田さん、いらっしゃい。」
入って来るなり、寮長と山田の目が合った。
「あっ、化け物・・・・やばい。」
「・・・・・・・・・・」
「く、組長がお世話になって・・・・あの時は又・・・・しっつれいしまして・・・・」
直立して、緊張のあまり言葉にならない。
「寮長、何なのあの人達。」
「ああ、ちょっとした知り合いだ。」
「いろんな人と知り合いなのね。」
「今日は、これにて失礼いたします。」
と言って、帰りにかかる。
「おいおい、何も飲まんと帰るのか。」
「は、はい。ちょっと急用を思い出しましたものですから。」
「そんな急な用事なんかあるか。水割の一杯ぐらいは飲む時間はあるだろう。」
「はい、それではそういたします。」
三人は小さくなってカウンターに座った。
「水割を。」
三人は出されたコップを、まるでジュースを飲む様にして飲んだ。
「それでは、これで失礼いたします。ママ、勘定。早く、釣はいらん。」
支払をすると、逃げるようにして出て行った。
「寮長、本当にあの人達と友達なの。」
けげんそうに恵美子が聞く。
「西岡組みのチンピラよ。」
口をへの字に曲げてB子が言った。
「ヤクザなの、怖いわ。」
「寮長には、西岡組の連中びびっているから。」
「本当?、信じられないわ。でも凄い。こんな現場映画みたい。」
恵美子の寮長を見る目が違ってきたことにB子は感づいた。そして、B子は寮長に体をぴたりと寄せると、前に座っていた恵美子ににやりと笑って、酒を飲んだ。恵美子の目線が急に強くなって、B子を睨んだ。
キャバレー飛鳥から、内田は恵美子を下宿まで送って行った。
「内田君が言っていた、命を託せる男という意味が何となくわかってきたわ。すごく心が広いんだな、寮長は。水商売の人達、やくざの人達、先輩、後輩、趣味の違う人達、みんな受け入れてしまうのね、あの人は。私もあんなすごい人に初めて会ったわ。今日は素晴しい日だわ、内田君ありがとう。」
「礼を言われることはないよ。」
そう言って内田は黙ってしまった。あまりに恵美子が寮長の事で興奮しているので、彼女の心の中に入り込む隙を見つけることができなかったのである。今夜、彼女を送って行く時に、自分の気持ちを打ち明けようと覚悟していた内田であった。しかし、今の恵美子には内田が何を言っても、興味を示す様な状態ではなかった。
「私って、学生以外の人を知らないでしょう。特に水商売の人は、何を考えているのかさっぱりわからない。でも、寮長は全く区別なんかしないで話をしている。それでも、一つだけ私、寮長に失望したわ。」
「寮長に?」
「そう、あのB子さんよ。内田君どう思った。」
「すごいグラマーだし、僕なんかとても相手にしてもらえませんよ。」
「男の人のみる目はいやらしいわね。すぐそういった体の事を言って。あの女は寮長にはふさわしくない女よ。きっと寮長を不幸にする女だわ。」
「そうかな、でも寮長が好きならいいじゃないか。」
「寮長は、本当にB子さんを愛しているのかしら。私にはそんな風には見えなかった。」
「どうしてそんな事がわかるんだ。」
「女の直感よ。B子さんは寮長の事を思っているようだけれど、寮長は絶対にB子さんほど思っていないわ。あんな最低の女と付き合っている寮長には失望よ。」
二人は寮長の事だけを話して。下宿の近くで別れた。内田はとうとう自分の気持ちを話せないまま寮に帰って来たのである。
「どうした内田。ちゃんと近藤を送ってきたのか。」
「はい、先輩。」
「何か面白くない事でもあったのか。」
「聞いてくれますか。僕は近藤を好きになってしまったんです。今日、下宿に送っていく時に、その事を話そうと思っていたのですが、近藤は寮長の話ばかりをして、とてもそんな話をする雰囲気ではありませんでした。近藤の気持ちは、寮長に傾いています。」
「そんな事はないだろう。俺は近藤と二人きりで話もしたことはないのだぞ。」
「しかし、今日近藤がキャバレー飛鳥に連れて行ってくれといったのは、キャバレーに興味があったのではなくて、B子さんを見極めに行ったのです。そして、B子さんは寮長にふさわしくないと言うのです。」
「それは大変な話だな。で、内田は近藤をどうするつもりだ。」
「どうするって、とにかく付き合ってみなければ先のことはわかりません。」
「まあ、そうだろう。しかしな、内田。女を好きになることは簡単だが、相手にお前を好きにならせることは難しいぞ。好きですというだけで付いてくる女ならば、やめておいたほうがいい。先が知れてる。お前達が見に行ったB子は、確かに世の中では俺の女ということになってはいる。しかし、俺は一度も付き合ってくれとか、愛しているとか言ったことがない。あいつも俺にそんな事を言わなかった。女と男というものは、まず言葉で言う前に、お互いに心で感ずるものがなければならない。一方的な押し売は迷惑なだけだ。」
「それでは、もし近藤が寮長に付き合ってほしいと言ってきたならば、どうするんですか。」
「もちろん断わる。確かに近藤はいい女だ。しかし、今の俺にはB子がいる。俺の気持ちがもし近藤に傾いたとしても、B子と別れるだけの決心が無ければ、近藤に惨めな思いをさせるだけだ。そんな事はしたくない。」
「そうですね。それでは、僕はどうすればいいのでしょうか。最近頭の中は近藤のことで一杯なのです。」
「男と女の問題は実に難しい。しかし、結ばれる時は以外に簡単なものだ。縁という奴だな。縁の無い話は駄目だ。」
「その縁ということは僕にはわかりません。」
「それは本能だろう。俺は、B子に会う前に二人の女と付き合った。その出会いは特別な事があった訳ではない。ある日偶然出会って、何かお互い感ずるものがあって、自然に付き合っていた。しかし、別れる時も、俺が職を変えた時に自然に別れていた。おそらく、俺がこの街を去る時が、B子と別れる時だろう。そんな予感はしている。そのところを近藤は女の感で見抜いたのだろう。」
「僕と近藤は縁が無いのでしょうか。」
「そうだな。今は無いかもしれない。しかし、縁というものはいつ訪れてくるかわからん。たとえば、内田のオケでは、内田は近藤をリードできんだろう。それではまず駄目だ。近藤をリードする立場にまずならなければならない。そうすれば、縁が向こうから近づいてくる。それに、近藤をこの部屋に連れて来るな。」
「なる程、わかりました。今日から気合いを入れてやってみます。」
そして、一ケ月がたった。内田が寮長に困ったような顔をして言った。
「寮長。実は今日近藤が最近寮に誘わないのはなぜかと言うのです。何とか理由を付けて言うと、近藤は、私を寮長に会わせないようにしているのでしょうと強い調子で責められました。僕は近藤にどうしていいかわからなくなりました。」
「それは大変だな。女に恨まれると怖いぞ。」
「人事の様に言わないでください。」
「しかし、弱った話だ。一度けりをつけとくべきか。わかった。明日近藤を連れて来てくれ。」
そんなことで、内田が近藤を久しぶりに連れて来たのである。恵美子は嬉しそうに部屋に入って来た。
「ご無沙汰だな。実は内田から話は聞いているので、一度二人でゆっくり話したい。内田、どこぞの部屋に行ってこい。」
恵美子は、内田がいなくなると真剣なまなざしで寮長の前に座った。恵美子から話しを切り出した。
「寮長、貴方は薄々感づいていたと思いますが、私は貴方が好きです。」
「なあ、近藤。君の気持ちは嬉しいが、君と俺との間には縁という心の繋がりができていない。確かに、近藤は素敵な女だ。男として、君の様な女と付き合えたならばと誰しも考えるだろう。しかし、俺にはB子がいる。そんな三角関係に君を入れる訳にはいかん。」
「寮長、そんな事は最初からわかっています。私はどんな状況でも構いません。ただ、寮長の傍にいさせてください。私は厳格な父に育てられました。家にいる時は武士のようにふるまう父でした。人間の上下関係や、礼儀作法を厳しく躾られました。そして、女であってもいざという時は男に負けない人間になれと言われ、いろいろなことを学ばされました。お酒も飲まされ、いかなるときにも乱れないような人間として育てられたのです。そんな世界しか知らない私の前に寮長が現われたのです。私の父とは違って、どのような人間であっても同じ様に受け入れることのできる、心の広い人間がいることを初めて知ったのです。私は、初めて会った時から、この人ならばわたしの一生を託せる人だという直感がありました。私を遊びと思っても結構です。B子さんに恨まれても覚悟ができています。しかし、私を遠ざけないで下さい。」
寮長の前に、武家の娘が懐から短刀を抜かんとするような迫力で座っていた。
「これは反対になったな、説得する人間が説得されるとは。ミイラ捕りがミイラだ。あはははは・・」
真剣に言っているのに笑うとは失礼なという顔をして恵美子は口を膨らませた。
「だが弱った。内田は君を好きだ言っとる。」
「内田さんのことは、私も薄々感づいていました。しかし、私には全くその気がありません。ずっと同級生として付き合っていきたいと思っています。」
「これは三角関係ならぬ四角関係だ。大変な関係だな。しかし、B子を除いてお互いに嫌いな人間ではないのだから、今無理に事を収めようとしてもどうにもならん。わかるな近藤。少し時をおこう。」
「わかりました。それではこれまで通りこの部屋に尋ねてきてもよろしいですね。」
「ああ、構わんが、近藤一人では駄目だ。必ず内田と一緒に来てくれ。今の自分には、君と二人で会う理由がない。そこは理解してくれ。」
「わかりました。」
まるで何かの交渉をしている雰囲気であった。しかし、全て裸になって身をゆだねてきた恵美子を、さすがに寮長もどうすることもできなかったのである。今回は、恵美子の方が一枚上手であった。寮長は古い人間であった。適当に遊ぶということができなかった。ましてや、同室の内田が思っている女である。今近藤は手が付けられないほど燃えている火事場のようなものだ。そのうち燃える物が無くなると自然に消えるから、今しばらく様子を見ろといって説得した。そして、今内田がやれることを精一杯しろとも言った。
内田が週に一度、練習の無い日に近藤を連れて寮に来た。そこでかねてより恵美子に会わせろと言っていた金田先輩を入れることにしたのである。金田先輩は喜んで跳んで来た。必ず何か食べるものや飲み物を持って来て、恵美子に勧めるのであった。そして、一人で恵美子としゃべりまくっていた。しかし、もともと話題に関連性が無い訳であるから、お互いに話題で盛り上がることはなかった。そんな関係はやがて火が消えるように続かなくなった。内田が恵美子を寮に連れて来なくなったのである。ところが、ある日突然恵美子が一人で寮長の部屋に入って来た。
「寮長、突然来てすいません。約束を破り、わがままですが、来てしまいました。寮長の洗濯をさせてください。」
「洗濯女がよく来る寮だ。わしは構わんが、内田が怒るぞ。」
「内田さんには今日言ってきました。何の目的もなく、寮長の部屋に集まり、ダベるだけは無駄ですと。私は私のやり方で寮長の部屋に行きますと。そう言って来ました。私の他にも洗濯女がいるのですか。」
「いいや、もういない。」
「もういないということは、過去にいたのですね。」
「ああ、しかし彼女は死んだ。」
「ええっ、で、その彼女は寮長とどんな関係でしたの。」
そこで、ユカリの話をした。黙って聞いていた恵美子は、うなずいて言った。
「ユカリさんかわいそうね。無念だったでしょうね。」
洗濯物をてきぱきとかたずけてきた恵美子は、鞄から小さな角瓶を出した。
「寮長、飲みましょう。」
押されっぱなしの寮長であった。アルコールが入ると、さすがの寮長も口がなめらかになり、恵美子との会話がはずむようになったのである。そんな風にして、恵美子は週に一、二度寮長の部屋に押しかけてきた。不機嫌なのは内田であった。あれからまともに口を聞かなくなったのである。
そして、二ケ月程たった。寮長の部屋に恵美子が尋ねてきた。
「近藤、今日は外へ出よう。付き合ってくれ。」
恵美子はやったと思った。自分の気持ちがやっと寮長に通じたのだと思ったのである。連れて行かれたのは、キャバレー銀河であった。A子が勤めていたところである。A子が秋田に帰ってから、一度も行ったことが無かった。
「あら、ずいぶんご無沙汰ね。今日は美人の彼女を御披露目に来たの。と言うことはB子をふったの。この色男。」
銀河のママがウィンクして言った。
「二人きりで話がしたいので、カウンターに行っていいか。」
そう言って。カウンターの端に座った。恵美子は心からうきうきして楽しそうであった。しばらくビールを飲みながら、寮長はおもむろに言った。
「実はな、信じられんと言うだろうが、B子とおれは一度もセックスをしていない。機会は何度もあった。しかし、俺は据え膳という奴が嫌いだ。俺からB子を誘うことは一度もなかった。なぜかよくわからないが、いつでもできると思うと、なぜかそうしない。こうして君と付き合って行くと、君が俺を誘えばその据え膳になるかもしれない。
「私、寮長となら覚悟ができています。」
毅然として言う恵美子であった。
「しかし、俺はその据え膳が嫌いだ。三角関係も嫌いだ。どちらかに手を引けというのも嫌いだ。なら、どうだ、B子と勝負して決めるというのは。それで俺が選べば俺の女だ。どうだ。」
「勝負?どんな勝負をさせるの。」
「たとえば腕相撲だ。B子にはすでにこのことを言ってある。受けてたつといっていた。」
「わかりましたわ。私も引き下がれません。やります。」
「近藤、これで決着が付いたら、俺と一生付き合うか、潔く身を引くか、どちらか一つになるが覚悟はできるか。」
「もちろんですは、寮長。私命懸けでやります。」
「そうか、話が決まれば飛鳥に行こう。」
そう言って、キャバレー飛鳥に向かった。歩いて二、三分の所である。B子は憮然として待ち受けていた。店には十数人の客かがいて、盛り上がっていた。話はできているのであるから、何の説明もいらなかった。
「さあ、ねいちゃんかかっておいで。」
B子が素人なんかに負けるかというふうな剣幕で言った。
「負けませんは、あなたには絶対。」
B子と恵美子はお互いに睨んで手を握った。
テーブルの上で女の腕相撲が始まった。何事かと酔った客が回りを取り囲んだ。美人二人の腕相撲である。これは見物だと、やんやの喝采である。行司役は、ボーイのせいちゃんというひょうきんな男がやってくれた。
「さあ、一回勝負ですよ。手の甲がテーブルに着いたら負け。ようござんすね。それでは、レディ、ゴー。」
二人は顔を真っ赤にして力を入れた。最初は互角であった。しかし、やがてB子が半分くらい押した。しかし、次第に恵美子が優勢になり、そのままB子の甲がテーブルに着いた。
「完敗ね。寮長を頼むわ。」
そう言い放つと、両手で顔を抑えて店の奥に消えて行った。
「寮長、ちょっと趣味が悪いんじゃない。B子がかわいそうよ。見損なったわ。」
そう、飛鳥のママが不機嫌そうに言った。しかし、恵美子は嬉しさのあまり、寮長に抱きついていた。
「帰る、ママ。騒がせてすまなかった。又来るから。」
そう言って恵美子と寮長は外へ出た。恵美子は嬉しそうに寮長の腕をとって歩いた。
「寮長、今日は貴方の好きな所へ連れて行って。」
「とにかく歩こう。」
そう言って、桜橋から続く桜並木の堤防を歩いた。
「なあ、近藤。B子は高校時代砲丸投げの選手をしていて、国体の代表選手になり、国体では六位入賞をした。山奥の出で、家が貧しくて借金があり、東京の私立の大学に推薦の話があったが、働かなければならないので、給料のいいホステスの道を選んだ。今でも実家に月々三万円の仕送りをしているという。」
一瞬恵美子の足が止まった。
「じゃー、わざと負けたのB子さん。」
「そういう事になるな。あの勝負は最初からわかっていた。腕相撲で君と勝負してくれという電話をした時、B子は、あんな女一発でしとめるから、と言っていた。しかし、最初から勝てるとわかっている勝負だとわかった時、B子は冷静に考えたのだろう。君の方がふさわしい女であると、B子は身を引いたのだ。そんな女なのだB子という女は。」
恵美子は桜並木の下で呆然と立ち尽くした。
「B子はすでに俺と付き合っていたのだから、彼女に選択の意思を任せた。そして、身を引いた。俺は、一度も勝負に勝った方ととは言わなかったはずだ。あの勝負で、B子が難無く君をねじ伏せていたら、話は違ったかもしれない。しかし、B子の俺に対する思いやりを知った今、もう結論は出ている。」
「寮長、私の負けだわ。愛するって事は、すごい事なのね。私が今B子さんだったら、勝っていたわ。」
「趣味の悪い勝負をさせたすまなかった。もし俺が近藤と付き合っても、長続きはせんだろう。愛の押し売は決して嬉しいものではない。近藤は、俺のいい部分ばかりを見たのだ。俺も人間だから、本当の姿は実にぐうたらだ。そんな姿を見たら、近藤はすぐに失望するだろう。惚れるというのは、相手のいやな部分を好きになれるということだ。だから、時には負けることのできる心の余裕が必要だ。 」
「わかりました、寮長。私はまだ心の狭い女です。でも、私にとって寮長の様な人と出会えたことは、誇りです。女として決して諦めた訳ではありませんわ。B子さんよりもっと大人の女になってきます。」
さすが、武家の女の様に育てられた女であった。そこのところを読んでいた寮長ではあった。
「寮長、こんなに私を苛めたのは貴方が最初です。次にお会いする時は、絶対私が寮長を苛めてみせますから。」
そう言って、涙声で寮長に抱きついた。今から別れるだろう二人が、なぜかいつまでも桜並木の下で抱き合っていた。
|