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8.のぞき
大学では期末試験が始まった。さすがの寮生も、この時ばかりは目つきが違ってくる。授業に出ていない部分のノートをお互いに交換して、何とか試験に間に合わそうと必死であった。専門課程に入った学生は、教科書というものがない。教授が黒板に書くものだけが頼りである。このノートがないと、お手上げなのである。しかし、さすがに一回も出席しないで、代返だけでやってくると、ノートを見ても何のことかさっぱりわからない。こうなると、残る手段は、教授の『げた』に期待をつなぐだけである。さすがに試験だけはかえ玉を使うわけにはいかない。出席だけして、答案用紙に名前を書くだけである。大学の試験は、最初から全問正解を期待して問題を作ってない。それほど完璧な答えを学生に期待するほど問題がやさしくないのである。日本語で書いてある問題の意味すら理解できない。それほど難解なのである。もちろん教科書が無いので、どんな資料を見てもいい。カンニングをしてもいいのである。しかし、それが正解の確立は非常に低い。であるから、満点を五百点程に設定して、時間内に百点ほどの解答を導き出せればまあまあなのである。それでも『げた』を何点かはかせないと、赤点の六十点を下回る学生が続出する。この『げた』が六十点ならば、零点でもとにかく『可』という最低評価だけはもらえることになる。ここに期待するのである。
ある寮生の話である。彼は一回もこの授業に出ていなかった。だから最初から授業の内容すら知らなかったのである。しかし、単位だけはほしいので、試験を受けることとなった。もちろん書けるのは名前だけである。隣の学生の答案用紙を見ても、解答らしき文字が書かれていない。三時間の時間が退屈なので、目覚ましをかけて、終了まで寝ることにした。やがて三時間がたち、一斉に学生が立ち上がると、ベルが鳴った。「あーあ、よく寝た。」
帰りかけた学生から、一斉に拍手と笑いが起きた。そんな話がまことしやかに伝わってくる。
試験が全て終了した日の事であった。解放感から、自然に緊張がとれて、笑みを浮かべる学生で校内はあふれていた。二回生の下出と川北も、今日は思いっきり飲みに行こうと相談をしながら寮に向かっていた。夕方の六時を回った頃で、あたりはすでに暗くなって、家々には明りが付いていた。女子寮の真下まで来た時、下出が上を見て何か見つけた。女子寮は七階建ての建物であった。
「おい、あんな所に誰かいるぞ。」
確かに女子寮の非常階段の所に人影が見えるのである。そして、女子寮の部屋を陰から覗いているようなのである。
「おい、あれはのぞき魔だぞ。」
「よーし、ただでは済まんぞ。」
「そこの男、降りてこい。」
川北が大きな声で怒鳴った。
見つかった男は、しまったという態度で、頭をかきながら階段をしぶしぶ降りて来た。後から来た寮生も何人か集まって来て、この男を取り巻いたのである。男は、少し禿げかかった五十才程の会社員風で、使い古した黒い鞄を持っていた。取り囲まれると、地面に座り込んでしまった。
「のぞきをするとは、ふてぃ野郎だ。」
「すいません。出来心なんで勘弁してください。」
「勘弁ならん、女の裸でも見えたのか。」
「すいません、すいません。」
ただひたすら地面に頭を着けて謝るだけであった。寮生の一人が足で蹴りながら、
「すいませんで許されるなら、世の中楽なもんだ。なんぼでものぞきに行くぞ。おっさんにも家族というものがあるだろう。こんな事が知れたらどうなるんだ。会社も首だろう。通りを歩けんようになるぞ。それほど大変な事をしたという自覚が足りんのではないか。どうなんだ。」
「すいません。許してください。」
寮生は試験が終わったストレス解消を何かに求めていた時だったので、のぞきのおっさんは運の悪い時に捕まったのである。五、六人がよってたかって頭や背中をこづき始めた。袋だたきという奴である。そこへたまたま寮長が通りかかった。
「おい、何をしとるんだ。」
「のぞき魔を捕まえた。」
「ほー、のぞき魔ね。なるほど、やりそうな顔をしてるな。」
おっさんは、寮長の顔を見ると、顔をくちゃくちゃにして、
「助けて下さいー。」
「甘えるなー。このど助平が。」
とまた下出が蹴りを入れた。
「おいおい、もういいだろう。後は自分が処理をしておくから、任せてくれ。」
そう寮長が言うので、事は収まったのである。
一階事務室である。
「名前と住所を聞いときましょう。」
「上田晋助と言います。五十三才です。市内有明町に住んでいます。」
「この近くだね。」
「はい、電車で大学前で降りて、いつもこの前を通って行きます。」
「職業は。」
「会社員です。駅前にある山本産業という食料品の卸会社で事務をしています。」
「家族は。」
「はい、家内と二人で今は住んでいます。長男と長女はすでに社会人になって、家を離れています。」
「それで、何が見えたのか。」
「まだ登ったばかりでしたので・・・・」
「それは残念だったな。何も見ないうちに引きずり降ろされて。」
「すいません、出来心だったのです。会社では面白くない事が続き、ついうさを晴らそうと思って登ったのです。」
「警察に渡すと、大変な事になるだろうな。」
「それだけは勘弁してください。」
「しかし、一応のぞきはしたのだから、このまま帰すわけにはいかない。しかし、実際に被害が無いのだから、もう二度としないという誓約書でも書いてもらいますか。」
「それで堪忍してもらえるのなら、何でも書きます。」
というわけで、この一件は落着した。
昼寝をして名前だけ書いて出した例の寮生は、「可」をもらうことができたという話も、まことしやかに伝わってきた。のぞきの話も忘れてしまった頃である。寮長の所に、横浜時代の友人が、北陸一週の旅の途中に寄った。その友人を見送るために、国鉄の駅まで来た。その帰り、駅の待合室で見たことのある男に出会ったのである。
「あっ、あの時のおっさん。」
すると向こうも気が付いたらしく、寄って来た。
「寮長さんでしたね。その節はありがとうございました。」
「やっぱり、上田のおっさん・・・・」
「はい、上田です。」
「こんな所で何をしてるんだ。」
「実は、浮浪者の仲間に入って・・・・」
と、寮長に泣き出しそうに言うのである。何か訳があるらしい。
「こんな所で立ち話も何だから、そこの喫茶店でも行こうか。」
寮長はコーヒーを注文したが、おっさんは何か食べさしてくれと言う。しかたがないので、焼き飯を注文すると、がつがつ食い出した。よほど腹が減っていたのである。程なくして、落ち着いたおっさんの話はこうであった。
のぞきをして捕まってから、二度としないと心に誓ったおっさんではあったが、二週間ほどたって、近くの看護学校の寮の前を通ったら、急に体が変になり、しげみに隠れて覗いてしまった。ところが、これも又すぐに見つかって、今度は警察に突き出されてしまったのである。引き取りに来た家内には家を追出され、会社にも知れてしまって首になった。もともと養子だったことと、会社もこの家の親戚筋の縁故だったので、裸同然で追出されてしまった。子供の所に身を寄せるのも恥ずかしいし、行く所がないので、一週間ほど前から駅の待合室をねぐらとする浮浪者の仲間に入れてもらうことにしたというのである。
「おっさん、あの時二度としないという誓約書はいったいどうなったのだ。」
「申し訳ない。私もあの時ばかりは二度とするまいと心に誓ったのですが、若い女の部屋の前を通ると病気が出てくるのです。自分で自分が抑えきれなくなって。」
「困ったおっさんだな。そんなに女の裸が見たいのか。」
「どうもそのようで。」
「根っからの助平だな、おっさんは。よく今まで固い事務員などの仕事ができたものだ。不思議だよ。」
「生活のために、仕方なくやっていたので、面白いことなど一度もなかったですよ。」
「それは不幸な人生だ。」
「ところが、こうして全てから放り出されてみると、なんだか気持ちだけは楽になった様な気がするんです。これが不思議で。」
「しかし、これからこのままという訳にはいかんでしょう。」
「そうなんだ。行くあてもないし、日雇の仕事でもして生きていくしかないのですかね。」
そんな出会いがあって、何日か後にキャバレー飛鳥に寮長は寄った。ここの常連の客で、「月曜日の男」というニックネームの男がいた。歳は三十才を少し過ぎた程であろうか、色白の背の高いハンサムな男であった。なぜか寮長と気が合って、なるべく寮長も月曜日に出かける様にしていたのである。その男が月曜日に来るのは、仕事の関係らしかったが、月曜日はどこも客が少ないので、孤独に浸って酒を飲むのが好きだなどと、きざな事を言う男であった。きざなことを言うのが似合っていて、常にぱりっとしたスーツに身を固めていた。金離れもよく、女の娘には人気があったのである。
その日も月曜日であった。寮長が中に入ると、カウンターに例の色男が先に来て飲んでいた。足をくんで、片ひじをつき、手にはブランデーがあった。
「色男になると飲む物も違うようだな。」
と、嫌味を言って横に座った。B子がすぐに寄って来た。
「寮長はおビールでいい。」
「いや、今日は花岡さんと同じものを。」
「あら、珍しい。寮長にブランデー。」
「あっ、そう言えば花岡さんは大川温泉でヌードの支配人をしていましたね。」
大川温泉というのは、車で三十分程の所にある温泉郷である。
「おいおい、そのヌードというのはやめてくれ。あれは芸術だ。」
「ヌードのどこが芸術よ。助平男を喜ばすだけじゃない。」
「素人はこうだから困る。ヌードは、女性の肉体美をいかに美しく見せるかというショーであり、美しい芸術である。であるから、うちはその名を花岡ミュージックという。」
ほら、と言って名刺を投げた。
「実は、こんな男がいるんですが、女の裸を見るのが大好きだと言っているから、案外間に合うんじゃないかと思って。」
「そうだな。今内の裏方のおっさんが脳卒中で倒れたところだ。一度会ってみるか。」
話がうまくいく時というものはこんなものである。寮長は、キャバレー飛鳥の帰りに駅の待合室に行くと、案の定ベンチに長々と上田のおっさんが寝ていた。
「おい、上田のおっさん。」
「えー、アッ寮長じゃないですか。又こんな時間になんですか。」
「実はな、いい話を持ってきたんだ。毎日若い女の裸を見ながら仕事ができるところがある。よかったら行ってみないか。」
「本当ですか。夢みたいな話です。」
「この名刺を持って、寮長の紹介だと言えばわかる。会ってくれるはずだから。」
上田のおっさんは、名刺を両手で拝むようにして受け取った。
それから二ケ月程もたっただろうか。寮長に面会のアナウンスが入った。事務所に行ってみると、例の上田のおっさんと、その婦人らしき二人が待っていた。
「寮長、いや、村岡さん。今日はお礼に伺いました。」
「花岡さんから、いい人を紹介してもらってと礼を言われましたから、うまく勤まっているとは思っていました。」
「そうなんです。何でもっと早く自分に合った職業を選ばなかったのかと、つくづくこの頃思うのです。」
そういう上田のおっさんの話はこうであった。
名刺を持って、花岡ミュージックの支配人に会いに行くと、明日から一週間見習いとして仕事をしてもらって採用を決める。そう支配人に言われ、一生懸命仕事を覚えた。なにせ、若いピチピチの女の娘の中でする仕事であった。上田のおっさんは楽しくてしょうがない。ヌードスタジオで働いているといえば聞こえが悪い。しかし、中の人達は実にいい人達であった。これまでの会社の人間は、人の足を引っぱることしか考えていなくて、息の詰まりそうな職場であった。ところが、ここは皆生き生きとして働いている。確かに、ヌードにならなくてはならない女性にはそれなりの人生の苦労があったのだろうが、苦労をしている分、人にはやさしくしてくれるのであった。おまけに、好きな女性の裸が毎日目の前で見ることができるのである。上田のおっさんは、水を得た魚のように生き返ったのであった。
「内の人が、まるで別人になったように目を輝かせて帰って来た時は、信じられませんでした。内の人を恥ずかしさのあまりに追出してみたものの、実はこの先どうなるのか不安でいっぱいでした。本当にありがとうございます。」
「これはお礼といっては失礼な物ですが、今の私にはこれくらいの事しかできませんので受け取ってください。」
そういって差し出されたものは、花岡ミュージックの招待券十枚であった。
「どうぞ、見に来てやって下さい。」
「それでは、お言葉に甘えて受け取らせていただきます。」
それにしても、人間の巡り合わせの不思議を感ずる寮長であった。
程なくして、花岡ミュージックの舞台の前に、寮長以下寮生の面々がおさまった顔をして陣取っていた。
「こんな所は、しらふで来る所ではありませんね。」
同室の内田が、始まってもいないのに顔を赤くして言う。やがて、場内が暗くなってショーが始まった。踊子が一枚一枚着物を脱いでいく。そして、とうとう丸裸になって、舞台の前に座った。足を開く。と、横を見ると内田の姿が見えない。
「あっ、内田、卑怯だぞ。」
一番おとなしそうな内田が、最初にかぶりつきに走っていた。その瞬間、我先にとかぶりつきに走る寮生であった。舞台の袖から、上田のおっさんの嬉しそうな顔が見えた。
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