6.避難訓練

 学生寮の会議室。十二、三人ほどの執行部々員が集まっている。定例の執行部会議であった。今回の議案の事で、隣にある女子寮の執行部々員も参加していた。司会役の副寮長の金田先輩が挨拶に立った。
「本日は、ご多忙の折、定例の執行部会義に出席していただき、ありがとうございます。」
女子寮のメンバーがいるので、いつになく紳士的な挨拶に笑いが起きる。何が可笑しいのかとむっとする金田先輩。
「本日は、議案の関係上、女子寮の執行部の方にも参加していただきました。つきましては、初めての合同会議となりますので、お互いの自己紹介から始めたいと思います。まず、寮長からお願いします。」
「寮長の村岡です。一回生ですが、歳は二十三になります。出身は、神奈川県の横須賀です。なぜ歳を食ったかといいますと、東大を目指して五回失敗してやむなくこちらに来た次第です。あっ、これは冗談です。」
「そんな事、顔を見ればわかるよ」
会計の坂本先輩が言うと、どっと笑いが起きた。
「寮長、真面目にやってください。」
三回生の金田先輩が真面目な顔をして言う。そつなく、自己紹介が終わる。
「さて、さっそくですが本日の議案の検討に移らせていただきます。資料をご覧ください。」
手書きのコピーが二枚綴られた書類がある。
「本日の議案は、毎年行われております、男子寮、女子寮合同の避難訓練であります。昨年は、議案書にもあります通り、日曜日の朝九時から行われました。全館に非常ベルを鳴らすと同時に、執行部員は中庭に集結していただきます。ここで、中庭にあります水槽から放水訓練をしたいと思います。前年の役員の方はわかっておられると思いますが、新役員の方はポンプの始動の仕方など、あらかじめ訓練をしたいと思いますので・・・・」
と、説明が始まると、中央に座って鼻糞をほじっていた寮長が、副寮長の話をおもむろに手で止めた。
「副寮長、話の途中で申しわけありませんが、昨年通りという話はまだ決まっていないのではないですか。今年は、今年のやり方をまず決めるのが先ではないでしょうか。」
「と、言うと、昨年通りでは何か不都合なことでも。」
「はい。私が考えますには、避難訓練とは、火事が起こった場合、すみやかに自分の命を守るために行動できるかを訓練する事でしょう。ですから、放水をして、寮の火事を消すことの訓練は二番目と考えます。」
何が言いたいのかよくわからないといった雰囲気になる。
「寮長、よく意味がよくわからない。」
「避難訓練とは、逃げることの訓練でしょう。消化訓練ではありません。ならば、あらかじめ時間を決めておいて、さあ逃げろと言ったところで、あくびをしながら仕方なく参加するのは目に見えていると思います。これでは訓練にならないのでは。」
「なる程、意味はわかるが、それでは、どうすればいいのか。」
「避難訓練と最初からわかっておれば、寮生はなめてかかってくるのはわかっています。だから、寮生には一切知らせないで、やるのがいいと考えます。」
「それでは、非常ベルの誤動作と区別が付かないのでは。」
「そこで、少し頭を使うのです。まず、発煙筒を全館にたいて火事場の演出をする。もちろんこの事がばれないように、早朝に行う。そして、火事だと大騒ぎをすればいのです。」
寮長の言っていることの意味が全員にわかりかけてきた。次第に真剣な表情になって、身を乗り出してくる。
会計の坂本先輩が、はめていたメガネをはずしながら言う。
「本当の火事の時と同じ条件を作って、逃げる訓練をするということだな。」
「その通りです。」
これは面白い訓練になりそうである。しかも、この秘密を知っている者は、ここの関係者だけである。次第に興奮した雰囲気になってきた。
「それでは、寮長の意見に賛成の方は挙手願います。」
「賛成」
全員一致である。
「それでは、具体的な計画の検討に入りたいと思います。」
秘密の会議になったとたん、皆の声が小さくなってくる。程なくして、役割分担などが決定された。
「それでは、今回の避難訓練について、次の様に役割を決めます。本部は、一階事務所に置きます。男子寮、女子寮の寮長、副寮長が本部につめます。今回の総指揮は、村岡寮長にとっていただきます。男子寮一階担当は、木村君、山越君、二階担当は・・・・・。集合時間は午前三時半とします。三時四十五分に発煙筒をたいていただきます。煙が十分に充満したことを確認して、非常ベルを全館に鳴らします。ベルと同時に、各階担当は『火事だ、起きろ。』と大声で叫んで回り、寝ているものを全て起こして下さい。起きない者は叩き起こす様にしてください。その後の段取りは昨年と同様になりますが、ポンプの始動は、暗闇の中となりますので、懐中電灯を山下君と表君に事務所から持ち出してもらいます。」
以上でありますが、何か質問はありますか。
「副寮長、一言付け加えさせていただきます。この訓練は、あくまで非常時を想定した訓練ですから、寮生にこの情報が知られてしまったのでは意味がありません。くれぐれも当日まで口外しない様にお願いいたします。」
このようにして、今年の避難訓練は奇襲作戦となったのである。
 会議が終わり、会議室には寮長と副寮長の二人だけになった。
「寮長、うまくいったな。女子寮から反対が出なかったのは意外だった。」
「具体的にどうなるのか、いきなりだったので想像できなかったのでしょう。」
「それにしても、ぞくぞくするな。パンティが透けて見えるようなネグリジェ姿の女がいっぱい飛んで出て来るのを想像しただけでも、興奮するぞ。特に、あの色っぽい山根和子なんか、どんな姿で現われるのか、オウ、オウ、オウ。」
「先輩、変な声を出さないで下さい。」
ニット笑う二人であった。

 さて、当日の三時半、ひそかに一階事務室に執行部員が集まった。皆何か嬉しそうである。寮長は事務室の中央に静かに座っている。副寮長が挨拶する。
「早朝から、ご苦労様です。それでは打ち合わせ通りに決行してください。」
なにか、赤穂浪士の討ち入のようである。程なくして、白い煙が廊下に充満してくる。そして、十メートル先も見えないくらいになってくる。発煙筒をたいている本人がせき込んで帰ってくる。
「おー、すごい煙だ。息が出来ない。」
「よし、いくぞ。」
非常ベルのボタンが押された。けたたましいベルの音と同時に、甲高い声があちこちでする。
「火事だ!火事だ!起きろ!起きろ!」
煙の充満した廊下を見た寮生は、本当に火事だと思い、そのままの姿で階段をころげる様にして駆け降りて来る。中には、パンツ一枚姿の者もいる。大成功である。さて、女子寮の方はと見るが、あまり慌てた風がない。すると、ハンカチで口を押さえてはいるものの、煙の中をにこにこ笑いながら降りて来るのである。姿は期待を裏切る普段着であった。
「寮長、女子寮は情報が漏れたのかな。」
と、副寮長の金田先輩が残念そうに小声で言う。と、そばにいた女子寮の田村寮長がいじわるそうに言う。
「金田さん、何か残念そうね。ふっ、ふっ、ふっ。」
「田村寮長、まさか情報を漏らしたのではないだろうな。」
「ご冗談を、金田さん。お約束はお約束ですわ。ただ、今日は普段着で寝るようにという放送を流しただけですわ。」
口をへの字に曲げて、腕組みをする金田先輩であった。
「田村め、なかなかやりおるわい。」
そう小声で寮長に言った。
さて、一階ロビーは大騒ぎになっている。
「火事はどこだ!」
マイクを通じて放送がある。
「えー、ただ今の非常ベルは避難訓練のベルです。寮生はすみやかに中庭に集合してください。」
「なーんだ。訓練か。それにしてもびっくりしたなー。」
ぞろぞろと寮生が中庭に集まり出した時である。遠くでサイレンが鳴り出した。火事のサイレンである。
「おい、偶然にも他で火事が発生したらしいぞ。どこだろう。」
などとざわついているうちに、サイレンをけたたましく鳴らした消防車が三台寮の前で止まった。
「火元はどこだ!」
消防士が血相を変えて飛び込んでくる。
「えー!」

ほどなくした一階事務室。眉間に青筋を立てた消防隊長が言う。
「こんな非常識な避難訓練があるか。近所の者が、白い煙を見て通報してきた。事前に消防署の方に連絡してもらわないと困る。」
「それは気が付きませんでした。申し訳ありません。しかし、本当の火事になった場合を想定しての避難訓練は大成功でした。女子寮を除いてはですが。ですから、あなたがたも、訓練だと思っていただけないでしょうか。来年からは、ちゃんとお知らせいたしますから。」
平然と言う寮長であった。