5.殴込み

 十二月も半ばを過ぎて、世の中はクリスマスに向けて次第にテンションが高くなりつつあった。そんな朝、いきなり雪が積もった。寮生のほとんどは県外、それも太平洋側の学生が多かったので、積雪の経験がない。朝起きると一面の銀世界に、思わず外に飛び出す者もいた。特に感動していたのは、沖縄出身の学生達であった。彼等は雪その物を見たことが無かったのである。この当時沖縄は、まだアメリカの占領地であって、彼等は日本の大学に来るにも、パスポートがいったのである。
 彼等のはしゃぎょうは、尋常ではなかった。庭に出るとお互いに雪をかけあって、まるで犬がはしゃぐようにして庭を転げ回っていた。この日は五十センチほどであったが、雪は降りやまず、三日間降り続いて、とうとう一メートルを超えてしまった。寮の中庭にある背の高い樅の木は、真っ白な雪化粧をして、時々風に揺れて、どさっと雪を落とした。寮生は、はき慣れない長靴をはいて、雪の上を歩いた。朝はよく滑った。雪の上を歩くのが初めての者は、滑ってころんだ。それでも雪は楽しかった。
 金田先輩が寮長の室に入って来た。
「寮長、大変な雪だ。俺が一回生の時にもこんな事があった。先輩達は、スコップを持って、教授の官舎の屋根雪降ろしに行った。あれは実に面白い。高い所は馬鹿でなくてもいいものだ。雪は明日には晴れるだろうから、ひと稼ぎのチャンスだ。」
寮長は意味が理解できない。
「寮長、この一件は俺に任せてくれ。」
そう言うと、一階ロビーの黒板に「告」を書いた。

     告
大学官舎の屋根雪降ろし
 日時    明朝六時集合(時間厳守)
 集合場所  学生寮玄関前
 道具    スコップ、軍手(各自)
 慰労会   八時より(食堂にて)
 二次会   キャバレー飛鳥など数軒にて

もちろん寮生はスコップなど持っていないから、金物屋に走る。一本五百円ほどであった。大学の教授、助教授、助手といった職員は、大部分この地の人ではなかった。そのために、学生寮の近くの一戸建の官舎に住んでいたのである。その数は五十棟もあった。ほとんど平屋であったが、教授達の家には若い者がいなかった。そのために雪降ろしはできない。そこに目を付けたのが寮生達であった。これは、寮と官舎に住む人達の伝統行事になっていたのである。
 早朝六時。まだ夜が明けていない。真新しいスコップを持ち、軍手をした寮生百人ほどが集まっていた。金田副寮長が門の前で挨拶する。
「朝早くからご苦労さんです。日頃お世話になっている先生方に、今日は御恩返しをしましょう。」
拍手と笑い声が起きる。
「一組五名のチームで一軒の屋根を降ろしてください。まず官舎の北側からかかってください。梯子はひとつしかありませんので、順番に降ろして、完了したら合図をしてください。私が下で梯子係をしますから。」
さて、いよいよ開始である。前触れもなく屋根雪降ろしが始まって家の者は、びっくりして飛び出してくる。しかし、事の次第はすぐにわかるのである。いそいそと家の中に入って何か用意を始めている。
 新雪は柔らかい綿のようで、油のよく付いたスコップから気持ちのいいほどよく飛んだ。始めての者は、屋根に登って滑り落ちるのではないかと、こわごわやっているが、しばらくすると慣れてきて、腰が座ってくる。さすが若者達であった。リズムが出て来ると、一軒の官舎を十分程で降ろしてしまうのであった。あちこちで完了という声がする。その度ごとに金田副寮長が梯子を持って走るのである。そして、金田副寮長にはもう一つ重要な仕事があった。それは、官舎から出される金一封と、清酒一升を受け取る仕事であった。実は、これが寮生の狙い目なのであった。金一封は、千円から二千円が相場であった。二時間程で全ての官舎の屋根雪降ろしが完了する。寮生のパワーを見せつけた瞬間であった。程なくして、一階の食堂脇にずらりと一升瓶が並ぶことになったのである。
 そんな、大雪も楽しさに変えてしまう寮生達に、一つの事件が起きたのは、年が明けた一月半ばの事であった。
 事の発端は、三回生の浅田一郎が、寮費を六ケ月滞納しているにもかかわらず、競輪選手の競技用自転車を二万円で購入して、乗り回しているのはあまりにも非常識であるという、会計からの告訴に始まった。
 浅田一郎は和歌山県出身であった。男ばかりの三人兄弟の頭で、身長百八十センチ、体重八十キロの体格をしていた。大学では、空手部に所属していたが、練習が嫌いで、あまり技の方は上達していなかった。しかし、空手部の雰囲気が好きで、常に坊主頭にして、高下駄をはいて大学に行っていた。酒も好きで、空手部のコンパには欠かせず出席していた。要領のいい男であった。
 酒癖が悪く、酔ってくると何をするかわからないところがあった。城山でコンパをした帰り、アベックが抱き合って歩いてきた。いきなり浅田はその女性を引っぱって抱き付いた。びっくりした男性は怒って浅田を殴った。殴られた浅田は、今度はその男性に思いきり蹴りを入れて、倒れたところを起こして何発か殴った。
「そんなに抱きたければ、人のいないところで抱き合ってくれ。迷惑だ。」
 駅前の飲み屋で飲んだ帰りである。路上駐車が何台かあった。そのうちの一台のドアをいきなり高下駄で蹴った。もちろん大きく凹んでしまった。ところが、よくやられるので、この日はその車の持ち主が前の家から見張っていた。網にかかったのである。どうしてくれるのかと言う男に、いきなりボデーに二発パンチを入れた。酔っていても空手部である。車にもたれるようにして男が倒れた。
「迷惑駐車はやめましょう。」
そう平然と言って去って行く浅田であった。
 さて、浅田一郎は、競輪場でアルバイトをしていたから、生活費に事欠くことはなかった。ところが、大学前の駅前通りにある小さな飲み屋にいる二十才になる恵美子という女性と交際するようになった。かなりの美人で、当時流行っていたストレートの髪を真ん中で分けたヘヤースタイルをしていて、細い足に長いブーツをはいた、学生の中にはいなかったお洒落な女性であった。こんな女性がなぜ浅田と付き合うようになったかというと、訳があった。やらせをしたのである。同じ空手部の後輩三人にこの飲み屋に行かせて、恵美子に難癖を付けて絡ませた。そこで浅田の登場である。外に呼び出して三人をやっつけたふりをして恵美子に恩をうったのである。そうとも知らない恵美子はまんまと罠にはまり、浅田と付き合うようになったのである。ところが、恵美子は外国のブランド物に執着する女性であった。当然浅田は恵美子の気を引くために金がいるようになったのである。そんなことで、寮費を滞納するようになったのである。自分のスタイルも、付き合う女もいいかっこをするというのが、浅田の基本であった。であるから、競輪選手の中古の自転車の話が出た時も、この病気が出て来たのである。
 寮の運営は、寮生からの寮費と、国からの補助金で成り立っていた。補助金の名目は、食費にかかわる一切の経費以外の全ての経費ということになっていた。すなわち、食べることだけは全て学生持ちだったのである。食事の賄い夫の給料も、もちろん寮生の寮費から出さなければならない。ところが、一ケ月五千五百円の寮費は、寮生にとって、三日程の土方仕事をすれば稼げる金額であったので、滞納する者が後をたたない。それでも滞納額は二、三ケ月程度であって、浅田のように半年というのは稀であった。このため、不足した食財などの購入費を、国からの補助金を当ててしのいでいたのであった。ところが、その滞納額に匹敵する買い物を浅田がしたものだから、会計が怒って告訴に踏み切ったのであった。寮費の滞納で、寮生が告訴された前例がない。告訴を受けた懲罰委員は頭が痛かった。
 
 告訴を受けて三日目に懲罰委員会が召集された。これはしゃばで言えば裁判に当たる。懲罰委員長と委員二人。風紀委員長と委員二人。寮長以下三役。平の委員五名。そして、被告の浅田一郎三回生と、弁護人二人、合計十七人による委員会が始まった。
 ただ今より、浅田一郎氏の寮費滞納問題に付き審議いたします。告訴された会計より、告訴の内容を説明してください。会計の阪本三回生が立つ。
「浅田一郎氏は、これまでに六ケ月分の寮費三万二千六百円を滞納しています。これは二番目に多いA氏の一万六千円の実に二倍に当たります。しかるに、浅田氏は最近になって二万円という高価な自転車を購入して乗り回しています。これは普通の自転車ではなくて、競輪選手が使う競技用自転車と聞いています。この様な自転車は、普通の生活には必要あるとは考えられません。また、再三寮費支払の勧告をしたにもかかわらず、一向に支払をする事がありませんでした。よって、浅田氏には寮費を払う意思がないと結論づけるにいたったのです。懲罰委員の方は、浅田氏に犯した罪に相当する懲罰を与えんことを希望します。」
「それでは、浅田一郎氏、この告訴内容に意義がありましたならば、申し述べてください。」
そこで弁護人の一人、橋本栄助が立った。
「異議がありますので、述べさせてもらいます。会計の阪本氏の告訴内容で、数字の部分は全て事実と認めます。しかし、寮費を支払う意思がない、という部分は全くの誤解であります。浅田氏は、競輪場のアルバイトを通じてある競輪選手と懇意になりました。その選手が、この程新しい自転車を購入したので、中古の自転車を浅田氏に安くするから買ってほしいと言ってきたのです。かねてより競技用自転車に憧れていた浅田氏は、このチャンスに心も踊らんばかりになり、何人かに金の都合を頼んで、この自転車を購入したのであります。よって、もともと浅田氏に金の余裕があった訳ではありません。
 たとえば、国からの援助を受けている母子家庭の家族が、毎月の生活費を切り詰めてカラーテレビを購入して問題になっていますが、一般論として、生きていく上の楽しみを奪わなければ、国は生活困窮者を救えないとしたならば、なんの福祉国家と言えるでしょうか。浅田氏の場合は、金を自分で都合を付け、夢を買ったのですから、誰に非難される筋合いでもありません。また、寮費の滞納に付きましては、来月から二ケ月分づつ上乗せして支払うと言っていますので、この事は三ケ月でけりが付きます。本人も、滞納の件に付きましては深く反省をしています。しかし、自転車のことを取り上げて、寮費の滞納と絡めるのは、人権を無視した悪質な告訴であると考えます。以上です。」
なかなかの理屈であった。
「わかりました。それでは弁護人の意見に対して、反論があれば述べて下さい。」
「弁護人の意見は、なる程と思われないこともありませんが、我々寮費で持ってぎりぎりのところでやりくりして、何とか食事を作ってもらっている人間にとって、半年もの滞納をしている浅田氏が、二万円の借り入れができ、それを寮費に当てるのではなく、自分の趣味に使ってしまうという矛盾を理解することはとうていできません。浅田氏の趣味である競技用自転車と、弁護人が例えられたカラーテレビは、とても同次元の話とは考えられません。カラーテレビは現在たいていの家にありますから、これが無いということと、誰も持っていないような浅田氏が購入した競技用自転車とを同一視することは、屁理屈の何物でもないと考えます。」
「委員長異議あり。」
「はい、弁護人。」
「いま、屁理屈と言われましたが、これは大変な誤解です。人はそれぞれ異なった性格を持っています。確かにカラーテレビは一般的なものになっていますが、被告人浅田氏は普通の人がほしがる物には一切興味を示さない性格をしています。特殊な物に興味があるのです。でありますから、一般論で言われますと、浅田氏の行動を理解することはできません。浅田氏にとって、カラーテレビが競技用自転車であった訳で、全く矛盾していないのであります。屁理屈と言う言葉の撤回を求めます。」
というような議論が延々二時間も続いたのである。
 「それでは、意見が出尽くしたと思いますので、十分の休憩の後、判決を言い渡します。」
休憩の間に、懲罰委員による検討が行われるのである。そして、判決が決まった。
「それでは判決を言い渡します。浅田一郎氏、本件に関しまして、三ケ月の禁酒処分といたします。もしその間に、これを破った場合、退寮処分といたします。以上を持って閉会いたします。」
 このようにして、前例の無かった食費滞納問題にけりが付いたかのようにみえた。しかし、二月中旬に四回生に対する「追出しコンパ」が行われた。処分が決定して一ケ月目の事であった。浅田一郎も、世話になった先輩に付き合って、新街のキャバレーに繰り出していたのである。そこで、飲んでしまったのである。この事が知れて、再び懲罰委員会が開かれることとなったのである。

「それでは、浅田一郎氏の懲罰に対する違反事件に付き審議いたします。今回は、風紀委員からの告訴です。」
「浅田一郎氏は、先月、三ケ月間の禁酒処分になっています。しかし、二月十六日の夜、キャバレーみよにおきまして、ビール約二本を飲みました。これは明らかに違反であります。決定に従いまして、即刻の退寮処分をお願いいたします。」
「浅田一郎氏、告訴に対しての反論はありますか。」
再び弁護人の橋本栄助が立った。
「この告訴に対して異議があります。酒を飲んだ事実は認めますが、これは特異な状況のもとで起こった事件であり、飲んだという認識は誤りで、飲まざるを得なかったというべきであります。あの時の状況を再現します。
 浅田氏は、お世話になった安藤先輩などとともに、キャバレーみよに行きました。四回生はもちろん浅田氏が禁酒期間であることを知っていました。しかし、今回は俺達に免じて禁酒を一日解いてやるから飲めと言われ、仕方無く飲んだのであります。本人は、禁酒期間であると強く先輩達に言ったのですが、とうとう押し切られて飲んでしまったというのが真相です。よって、酒を飲む意思が無かった事により、決定に背いたと言われるのは、完全に誤解であります。もし、あの状況で四回生に断わり続けたならば、寮生としての義理を欠くこととなり、先輩に対しても大変失礼なこととなります。よって、浅田氏は酒を飲んではいるが、意思が無かった事によって無罪を主張するものであります。」
「反論に対して意見はありますか。」
「これはおかしな理屈です。キャバレーという所はお茶を飲むところではありません。行けば必ず酒が出るところです。禁酒を言い渡されている浅田氏が、こんな所に行って、酒を飲む意思が無かったのに飲まざるを得なかったという理屈は、後から考えた理屈に他なりません。我々の決定した処分を重く受け止めているならば、浅田氏は、キャバレーへ誘われた時点で断わるべきであって、キャバレーへ行ったということは、酒を飲む意思が最初からあったというべきであります。」
「委員長、異議があります。」
「弁護人どうぞ。」
「世話になった四回生の申し出を断わる事は、現実問題として不可能であります。委員の話は、机の上の話であって、現実には、キャバレーへ入る前であろうが、入ってからであろうがそんな事は関係なく、断わる事はできません。付き合ってくれと言われた時点が、寮内であった訳ですから、この時点ですでに浅田氏は行く意思も、酒を飲む意思も全て先輩によって決定されていたというべきであります。よって、浅田氏は、誘われた時点で断わる事はできない状態であったのです。」
このようにして、再び二時間に及ぶ激論がかわされたのである。
「それでは意見が出尽くしたと思われますので、寮則第五条の退寮に関する条項を適応致します。条項によりますと、退寮に関しては、執行部の四分の三以上の出席をもって採決し、その三分の二以上の賛成をもって可決する。とあります。執行部の出席は十三名でありますから、今日の場合は、七名以上の賛成でもって、浅田氏の退寮が決定いたします。もし否決された場合、寮長から、執行部解散の意思を聞いております。」
浅田氏側の顔が一瞬引きつった。まさか、寮長がこの件に関してそこまで腹をくくってくるとは考えてもいなかったのである。
「それでは採決に移ります。退寮処分が妥当だと思う委員は挙手を願います。全員の挙手と認めます。よって、浅田氏の退寮が決定いたしました。浅田氏は明日をもって速やかに退寮してください。」
「委員長。これは不当裁判だ。俺は行く所が無いのだ。雪の中に放り出すというのか。」
浅田一郎は、顔を真っ赤にして怒鳴った。そして、ドアを足でけとばして会議室を出て行ったのである。

 こうして浅田先輩が退寮処分になって一週間が過ぎた。夜の十時を回った頃であった。寮の玄関先で、たまたま飲みに行こうと出て来た寮生二人がいきなり殴られた。そこには浅田先輩の異様な姿があった。ずいぶん酒が入っているようだ。よろめきながら寮に入って来た。ロビーには三、四人の寮生が歓談していた。
「おい、お前ら、よくも俺を追出してくれたな。」
そう言うと、寮生に向かって襲いかかってきた。そして、手当りしだいに殴ったのである。酔っていても、空手部である。ほとんど一発で殴り倒されてしまった。一人の寮生がからくも逃げて、寮長の部屋に飛び込んできた。
「寮長殴り込みだ。浅田がやって来た。出会った者は全部やられた。」
「やはり来たか。予感はしていた。よし。」
そう言うと寮長はロビーに向かった。ロビーでは、たまたま降りて来た寮生数人がまた殴られていた。騒ぎを聞きつけた寮生十人ほどに遠巻にされて、大騒ぎになっていた。
「浅田先輩、村岡です。」
「おお、寮長か。よくも俺を追出してくれたな。先輩に恥をかかせるとどうなるか、今思い知らせてやる。」そう言うと、寮長の口元に強烈なパンチを入れた。寮長は少しも動かずにそのパンチを受けた。口から鮮血が流れ落ちた。
「さすがに浅田先輩です。酔っていてもなかなかのパンチです。ききましたよ。」
「生意気を言うな。寮長、なぜあの時解散権をちらつかせたのだ。あれでは誰も反対できないではないか。」
「決定は決定です。理屈で覆えすことは、寮の規律を無くすることです。上級生が力で無言の圧力をかければ、執行部は無用になります。理解してください。」
「できん。ちくしょう。」
そう言って、今度は寮長の腹に蹴りを入れた。寮長は膝を付いて腹を押えた。
「寮長、大丈夫ですか。浅田先輩、無抵抗の者に暴力とは、元寮生として恥ずかしくないのですか。」
「寮生なんて糞食らえだ。」
そう言うと、狂ったようになって暴れ出した。
「浅田先輩、先輩の狙いは自分一人でしょう。気が済むまで殴ってください。寮生には手を出さんで下さい。」
そう言って、浅田先輩を睨み付けた。そんな寮長の迫力に一瞬たじろいだ。
「寮長だけを犠牲にはできん。浅田、俺も殴れ。」
「そうだ、俺も殴れ。」
二十名ほどに膨らんだ寮生が口々にそう叫んで寮長を取り囲んだ。振り上げていた拳が一瞬宙で止まった。真っ赤になった顔が歪んで、拳を降ろした。そして、浅田先輩は静かにうなだれて、無言のまま去って言った。

「寮長、まだ口から血が出ています。大丈夫ですか。」
「ああ、これくらいは慣れている。」
「それにしても、相手が浅田先輩でも、あれだけ酔っていれば、先輩なら一発で済んだのではないですか。なぜ抵抗しなかったのですか。」
同室の内田が手拭を持って来て言った。
「内田、先輩は先輩だ。先輩を殴って、お前は嬉しいか。殴られて解決できるのならば、喜んで殴られよう。そうじゃないか。何も悲しい選択をすることは無い。よく覚えとくことだ。」
そして、窓の方を見ながら言った。
「浅田先輩を寮から追出したのは自分だ。確かに、短期間に寮費を払えばいいのではないかという委員の声があった。それは、浅田先輩が数人の四回生を引き連れて、委員の部屋を回って圧力をかけたからだ。そんな先輩を自分は許せなかった。やり方が汚すぎる。そうだと言って、先輩が殴り込んできて、殴り返すことは、自分が先輩と同じ様に、力で解決することを意味する。しゃばには裏がある。しかし、その裏を羨ましく思う人間にだけはなりたくない。なあ、内田。これから日本はますます駄目な国になるぞ。この寮生だけは、本物の日本男子たれと自分は願うのだ。」
この時の寮長ほど、内田には素晴しく見えたことはなかった。命を賭けてもいいと思う人物の話を読んだことがあったが、そんな男が目の前にいると内田はそう思った。