奥の細道、空白の一日
 松尾芭蕉の奥の細道はあまりにも有名で、その句碑たるや全国に無数といってよい程存在する。写真家として、この中の句に惹かれるものが多く、いずれは歩いて芭蕉の後を辿って撮影したいものだと考えていた。そのための準備を早くからしていて、曽良日記にもとずいて、奥の細道の日程表を製作していた。ところが、芭蕉が山中温泉に滞在し、そこで曽良と別れて小松に戻るところまでははっきりしているのだが、なぜか小松での一日行動が不明なのである。
 小松天満宮の移転問題に関わるようになつて、まず依頼された小松天満宮誌製作の仕事の中で、小松天満宮と松尾芭蕉に関わる古文書の存在を知る。この内容はあまり信用性は高くないと感じたが、火の無い所のたとえで、何かあったという直感はした。そのことがきっかけで、長年の疑問を解くことに熱中することとなった。
 その成果は「奥の細道、空白の一日」として発行され、現在売り切れ絶版で、図書館で閲覧できる。以下はその抜粋だが、結論からいって、連歌の天才能順と俳諧の天才芭蕉がこの小松天満宮で会ったことは確実で、その記念すべき場所が無くなることは、文学史上の重要遺跡を消し去ることであり、許されるべきではない。(後に能順の日記が発見された。同日に芭蕉の記載はない。不愉快な出来事をわざわざ記載するとは考えられない。)
元禄2年7月24日
1689.9.7 金沢発、小松着。(近江屋泊)
25日
8
八幡神社(多田神社)山王社(本折日吉神社)詣
26日
9
堤歓生の歓水亭に招かれる。(泥町)
27日
10
多田神社へ奉納の句。小松発、山中着
泉屋久米之助の宿に泊まる。
28日
11
薬師堂(医王寺)参拝。
29日
12
大垣の近藤如行宛の手紙
30日
13
大聖寺川、道明ヶ渕に出かける。
8月1日
14
黒谷橋に出かける。
2日
15
小松の塵生から早飛脚、手紙と乾うどん。返書
3日
16
雨、北枝の問に答えて俳諧の心説く。
4日
17
雨、北枝、曽良と歌仙を巻く。
5日
18
山中発、那谷寺へ詣。曽良と別れる。小松着。
6日
19
?
7日
20
小松より大聖寺、全昌寺泊。
 なぜ小松に戻ったか?
 芭蕉の行動の変化を知る手がかりは、29日と2日の手紙から知る事ができる。すなわち、29日の大垣の近藤如行に宛てた手紙では、8月4,5日頃山中を立って、仲秋の名月(8月15日)は、琵琶湖で見たいと考えていた。ところが、2日の早馬での手紙で予定が変わる。芭蕉の返書の内容は、小松天満宮へ発句奉納の件を承知したというものであった。2日雨で山中に滞在、3日目に小松戻る。ところが翌8月6日、この段取りをした生駒万子や塵生、曽良、芭蕉自身までもこの日の事を何一つ書き残すとはなかった。いったい、この日小松で何が起こったのであろうか。8月6日は奥の細道の空白の一日なのである。

 補足ではあるが、7月24日、芭蕉が小松に入った頃、加賀藩の重臣で芭蕉の門下であった生駒万子は災害復旧のため、小松天満宮の発句奉納依頼を段取りできなかった。生駒万子は連歌の手ほどきを小松天満宮の連歌の天才能順に受けている間柄であった。人を介さなければ小松天満宮に奉納できない程で、当時の天満宮の格式の高さが伺える。

 現在連歌はほとんど知られていない存在になったが、高度の文学、歴史の知識を必要とされ、その約束事の複雑さから、知識階級の芸能として栄えた。北野天満宮では、天神は連歌を好むとされ、盛んに連歌奉納が行われ、祈願も連歌によって行われていた。北野天満宮に仕えていた能順は、連歌の才能を発揮し、朝廷に認められた連歌の天才であった。小松天満宮を造営した前田利常の招きで、小松天満宮の別当に着任していた。

能順画像・小松天満宮蔵
 後の世の憶測
 能順と芭蕉が会見したのかしなかったのか、天満宮へ発句奉納があったのかなかったのか。この問題に関して、後になっていろいろな憶測が記されることとなった。その一つが、私が最初に出会った「とはじぐさ」という文書だった。この話は、後に能順の孫から聞いた話として、建部綾足が書き残した。「加能俳諧史」など、後のこの件に関する資料は、ほとんど「とはじぐさ」を元に考えられたようだ。
 「とはじぐさ」によれば、能順と芭蕉との会見は行われたが、芭蕉が能順の発句として記憶していた「秋風すすきうち散るゆうべかな」を能順が聞き、腹を立てて退席。芭蕉が不信に思い若法師になぜだかをたずねると、「秋風」の間違いだと指摘されたという。
この話はつじつまがあっているようにみえるが、芭蕉の資質を問う話の筋書きが見える。人気者の芭蕉も間違いをする。連歌の心を知らない芭蕉は、恥をかいた。そんな、芭蕉人気に快く思わない人の創作の匂いがする。
 おそらく、芭蕉の奉納発句は「秋風」を詠んだものと推測する。「に」であったか「は」であったかというよりは、蕉風と呼ばれる独立し、数々の連歌の制作過程における束縛から逃れた、個人思想で完結型に確立された発句の意味するところを知り、天満宮への奉納にそぐわないとのレベルの高い判断であったと私は考える。権威をふりかざして、最初から俳諧を低俗なものしとて拒絶しているならば、発句奉納事態が成立しないことになる。能順はそれ程官僚的な物の考え方ではかったから、奉納の申込を一旦は承諾したと私は考えている。
 この考えに至ったいきさつは、奥の細道を読み返す内にある重要な事実に気が付いたことに端を発する。これ程芭蕉が重要視した件が、芭蕉自身全く語らないとは不自然だと思い、奥の細道の中にヒントがあるはずだと考えていたからだ。
 芭蕉がこだわった「秋風」
奥の細道は、実によく計算され尽くして作られている。その掲載発句は全部で
50句あり、内容から起承転結に分類されるように並べられている。

起の部・・・五月雨の句まで17句・・・歌枕を訪ねての歴史回顧

承の部・・・早稲の香の句まで18句・・・素朴な風土を「かるみ」
をおびてのびやかに詠む

転の部・・・物書いての句まで10句・・・人々とのかかわりや、
自分自身の感情を直接読込む

結の部・・・蛤のの句まで5句・・・旅の印象を余韻をもって終わる

 さて、このように分類すると、明らかに加賀の地に入った転の部が、奥の細道のクライマックスであることがわかる。その部分には、あまりにも難解な句が連なっていて、後世の解釈が様々出現することとなる。その中に、なぜか「秋の風」を詠んだ句が3つも並んでいることに気が付いたのである。

  塚も動け我が泣く声は秋の風

  あかあかと日はつれなくも秋の風

  石山の石より白し秋の風

 奥の細道中最も優れた3つの句が、なぜ全て「秋の風」をテーマにしているのだろうか。これは、ひつこいと言わざるを得ない。ここまで計算され尽くした中で、この重複に芭蕉の隠された意図があり、奥の細道の中でのメインテーマと考えれば、納得がいくのではなかろうか。

3つの「秋の風」の意味は?

 これまでの注釈書などでは、「秋の風」を、現実に爽やかに吹いている風としてとらえたものが多い。しかし、3つの句を並べて読み返すと、はたして単に涼しく吹く秋の風だろうかという疑問が浮かぶ。それでは、いったいどの様な風を意味しているのだろうか。
 それを理解するためには、能順との会見で「秋風」に対する見解の相違を前提にすることによって、見えてくるものがある。

 会えると思っていた人が亡くなっていた。そのやるせない思いを直接的に動け! とか、我が泣くといった表現をしているのに、その現場に爽やかな風が吹いているとはあまりにも不自然ではないか。

 あかあかと・・・この直接的な太陽の表現は、いったい何を意味しているのか。そして、ここでも秋の風が爽やかに吹いているのか。

 石山の石より白しと、単に秋の風の白さを表現したものならば、3つもの秋の風をここにきてダブらせなければならない理由にはならない。ここまでくると、やはり芭蕉の秋の風は他に理由があると理解しなければならないだろう。

 私は、奥の細道を旅してきた芭蕉が、加賀の地に来てようやく解放された自分を意識できるようになったのではないかと思っている。なんの束縛も受けず、自然体の自分を見つけた喜びを「秋の風」と詠んだのだと私は理解している。

 人の死に対して素直に泣き崩れる素直な自分があり、さんさんと照りつける絶対的な存在の太陽にも、自然に身を任せられる自然体の自分があり、自分の心が石のように白く澄んだ、自信に満ちた爽やかな自分があった。そのような境地を「秋の風」と表現したと私は理解する。そうすると、能順との会見は見事に理解できるのだ。

 芭蕉がどのような句を奉納しようと思ったかはわからないが、おそらく「秋の風」の句であったことは間違いないと思う。なぜなら、奥の細道を通して、ようやくたどり着いた境地であったからで、その理解を尊敬する能順に求めたのではなかろうか。しかし、俳諧を低俗しとて、連歌の世界では受け入れなかった時代の背景や、当時の物の考え方を考えると、芭蕉の境地は到底受け入れられるものではなかったと思う。文学観や見解の相違と言えば単純だが、当時一般にはこの事実を理解できるレベルは無なかったと思う。そこで、話を面白く、誰にでも理解できる「記憶違いをしたとか、芭蕉は連歌の心を知らない」と、書かれたのではなかろうか。
 最近発表された説に「俳諧そのものを低俗なものとして考えていた支配階級の連歌の世界は、発句を独立させた文学に押し上げたとはいえ、とうてい天神奉納を許されない・・・」などとこの会見を解釈しているが、もしそうならば、発句奉納申込段階で拒否され、もちろん芭蕉は小松へ戻ることはなかった。
 能順も芭蕉の存在は認めていた。奉納発句の内容によっては許すつもりであったと思う。しかし、「秋の風」の当時では理解できないあまりに人間臭いとも言える進んだ考え方に、能順は奉納の許可をためらったと理解するべきだろう。
 秋の風は、そのまま能順の秋風とすりかわり、連歌師のスター能順の威信を使って、人気の高い蕉風に不利な物語がでっちあげられたと考える方が自然だろう。

 ところで、芭蕉が発句奉納を願い出た肝心の発句とは、何であったのだろう。私は、あかあかと・・・の句がもっとも有力であると思っている。
 偶然にも私が初老を迎えた1989年、芭蕉が小松天満宮を訪れて丁度200年がたっていた。これを記念する意味と、芭蕉が果たせなかった発句奉納を不祥私が変わって果たそうという意味とで、境内参道に「あかあかと・・・」の句碑を建てさせていただいた。記念式典は1989年11月3日である。

 日本文学史上、空前絶後の紀行文「奥の細道」のクライマックスの地である小松天満宮を移転させることは、その歴史文学の地を消し去ることに他ならない。これは、日本のおおいなる損失と認識すべきである。

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天満宮に建てられた、あかあかと・・・の芭蕉句碑