3,存在意義の調査始まる

小松天満宮誌が順調に製作され、発刊されたのが翌昭和57年12月。これを機会に、お宮が新しくなることはいいのではないかという疑問に答えるべく、小松天満宮の存在意義を独自に調査することとなった。この間、建設省でも同じ問題で調査委員会を発足させ、専門家による調査が始まる。勿論、建設省は移転ありきの方向での回答を期待しての調査であったようだが、小松天満宮の私的機関による調査は、その方向性はその時決まってはいなかった。ただ、移転するにせよ、民家レベルでの移転方法は考えられない条件であることは明白で、残るも地獄、移るも地獄の状況は明白であった。

発刊された小松天満宮誌


 夢枕その1

 お互いに沈黙の4年間という時間が過ぎ去っていった。昭和61年のことであった。撮影取材のために、私の手元には北陸の五万分の一の地図が全て揃っていた。ある日の真夜中、ある閃きで目がさめた。まるで神の声が聞こえたようであった。地図を繋げ! 作業場の二階へ飛び込んで五万分の一の地図を6枚切り抜いて繋いだ。そして、金尺で小松城、金沢城の本丸あたりを結んでみた。すると、正確に小松天満宮の社の小さな四角の中心にその線がくる。何ということだろうか。これは偶然ではない。何か意図するものがあるに違いない。そう直感した。

 一直線の意味を専門家に解明依頼

藩政時代の思想は陰陽五行説というものにうらずけされていた。この一直線問題は、この思想を専門に研究する人にお願いすることになった。選ばれた人は、その道の第一人者で、東京の黒岩重人氏であった。さっそく小松に氏をお招きして、この問題を解決していただくことにした。暫くして氏の正式な見解が届けられた。それによれば、小松城に隠居していた三代藩主前田利常公が、加賀藩安泰のために最後の仕事として前田家の先祖である菅原道真公の御神体を京都の北野天満宮から遷座して、小松城と金沢城の一直線上、すなわち鬼門線上に正確に造営することであった。このことによって、小松城や金沢城の怨霊が避けられると考えられたからだ。この計画には大きな二つのネックがあった。一つは、天皇家の祈願所となっている北野天満宮から御神体を遷座できるか? もう一つは、説によって選ばれた場所は梯川のほとりという沼地で、この地に建造物が建設できるか? この二つの難問をクリアしなければならなかった。調査の結果、前田家は様々な政治手腕を駆使し、遷座に成功する。そして、加賀藩の土木工事の粋を結集して工事を完了させたことがわかってきたのである。この結果、小松天満宮は日本史における、他に類を見ない思想と土木工事の遺産であることが判明したのである。

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