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2,問題の発端
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| 平成2年2月17日夜、小松天満宮の有名な茶室「修竹庵」に、8名の男達が密かに集まった。この日から9年に及ぶ国を相手の壮絶な戦のプロジェクトが始まった。この記録は、国の重要文化財に指定された建造物を、市民を梯川の水害から守るという「大義名分」を盾に移転を迫る国との戦いの記録である。この大義名分には、実は大きな隠された意図があった。では、その物語を始めよう。 | 小松天満宮問題 TOPに戻る |
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| 小松天満宮本殿・拝殿 (国重要文化財) 京都北野天満宮の1/4縮尺に建造されている。 |
小松天満宮神門(国重要文化財)
赤門とも呼ばれ、東大の赤門と同じく徳川家から姫君をいただき、縁戚になった大名の門にだけ許された朱塗りの門。 |
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| 事の発端は、昭和46年に小松市の梯川が一級河川に指定されたところから始まる。このことにより、同年河川の基本計画が提示される。それによると、一級河川の基本流量の設定から計算して、上流にダムを複数建設、下流の川幅を拡幅することよって洪水対策をするとしている。これらの工事の総量は、100年の土木工事が生み出されるとの関係者の意見だ。長野県でダム建設が中止になる現在の流れを考えると、隔世の感がする。
ここまでの決定は、小松天満宮にとってなんら問題ではなかったが、梯川の側にある同宮がこともあろうにこの拡幅工事の法線の中に入れられたことから問題化する。では、なぜそのように決定されたのかを見てみよう。 |
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| 図のように、拡幅案には1,左岸2,右岸,3,両方均等の3つの案が検討された。拡幅は現在より50m広くする。建設省の検討資料によれば、どれを選ぶかという根拠は、家屋などの移転費用を根拠とした。右岸の小松天満宮などの文化財も算出基準は一般の家屋と同等として算出。その結果、家屋数の少ない右岸が最も経済的であると結論付けられた。この手法は、誰が考えても不自然だった。 | |||
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なぜ?
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| 1,国重文の移転費用がなぜ一般家屋と同等なのか?
2,国重文が移転した前例はなく、必ず文化庁と対立する法線をなぜ選択したか? 3,洪水対策ならば、早期に解決できる見込みが高い左岸を選択しなかったか? このような問題に対する選択疑惑は、後にしだいに明らかになっていく |
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問題の表面化
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| このような重要な決定が役所の告示板に張出されるだけという、まさに密かに計画が進められていることは、関係者の間では全く気が付かないまま時間が過ぎていった。ところが、ある事がきっかけで問題が表面化することになる。
小松天満宮では、宮司の死去にともなって、東京で小松製作所の子会社、小松相模工業株式会社の社長をつとめられていた北畠直順氏が宮司として着任。小松天満宮の国重文指定20周年などの記念事業をすすめることになった。その事業内容は、参集殿の建設、小松神社本殿の建設、小松天満宮誌発刊などであった。建設委員会を結成して、加賀藩18代前田利建氏を名誉会長に、募金活動を推進した。ところが、突然建設省から、梯川拡幅工事の法線内に入っているので、新たに建造物の建設は認められない。適当な場所を捜して移転してほしいとの通達を受ける。晴天の霹靂のような話に、関係者は驚愕した。 協議の結果、委員会は即刻解散。計画は白紙、募金は全て返却する事態になった。ところが、この時北畠直順宮司から小松天満宮誌の製作依頼を受けていた私は、この事業だけは私費で成し遂げたいとの意向を受けて、撮影に没頭することとなった。時に昭和55年10月、宮司61才、私31才の時で、56豪雪は天満宮の雪景色を撮影するに絶好の機会を与えてくれた。 今思うと、これから平成10年までの19年に及ぶ長い戦いが始まろうとは、この時の私は夢にも考えなかった。
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| 56豪雪の参道。このように雪に埋もれた参道は平成13年現在までない。 | ||||