1,プロローグ

北陸の自然と文化をライフワークにしている
私にとって、写真を撮る対象である文化財が
失われるということは、降り掛かる火の粉の
ようなもので、当事者であった小松天満宮の
宮司をしておられた故北畠直順氏と運命を共に
するように活動をしました。そして、あらゆる
可能性を駆使し、ついに文化財を守り通しまし
た。まず、以下にその活動の概略を記し、その
詳細は後のページで記します。

 国重文・小松天満宮はかくして守られた

小松天満宮のそばを流れる梯川の一級河川に格上げによる拡幅工事にともなう国の重要文化財移転問題は、下記のような拡幅案で解決された。このような河川改修は、日本の河川土木工事の歴史に残る画期的な解決方法で、世界でも前例の無い改修工事である。この論文は河川工学の世界学会紙に掲載された。同じような問題に対して、どのように解決すればよいか、そのヒントとなればと考え、後世の参考資料として記載した。
 小松天満宮を移転せずに河川の拡幅工事をする方法として、左図のように、ミニバイパスを付けることを私が提案。

 しかしながら、当時の建設省はこの案の安全性が確認できないとして拒絶。それに対して、私は安全性はどのようにして認定されるのか? 又、全国の河川で100%安全といえる河川が存在するのなら指摘してほしいと反論。結局、この質問に建設省は全く返答できないまま、ものわかれ。

 その後、絶対あり得ないと言われた国の直轄事業を、市民運動が覆す結果となった。そのてん末を次ページから記そう。

なぜ、お宮を移転させてはいけないのか?
小松天満宮の存在理由・1
 一般的に、お宮は新しいものが良しとされ、移転、新築は珍しい事ではない。しかし、小松天満宮においては、当初、移転の方向で検討された時期もあったが、移転の費用が一般家屋評価であり、到底不可能であった。その後、独自に調査を開始するや、様々な天満宮の存在意義が発見されたのである。

 図1は加賀マンダラ図と呼ばれるもので、加賀藩の重要建造物の位置図だ。その位置を5万分の一の地図を張合わせて作った巨大な地図で確認すると、正確に一直線上に位置することを私が発見した。その正確さはかなりの精度で、想像ではあるが、当時の思想の土台となった陰陽五行説によって配置、正確に測量されて位置が決定されたと思われる。その根拠の詳細は、私の著書「奥の細道 空白の一日」に詳しい。そのような建造物を安易に移転することは、当時の思想の背景を立証する大切な根拠を失うことになる。

 小松天満宮は、建造物が国の重要文化財であるのみならず、その立地理由においても、藩政治代の重要な遺跡でもあった。

 小松天満宮存在理由・2
 この写真は、芭蕉の句碑と紅梅の咲く頃だ。平成元年、私が小松天満宮の責任役員を仰せつかり(平成9年まで)小松天満宮を守る会の事務局長をつとめていた頃、ちょうど初老にあたり、記念に建立させていただいた。

 松尾芭蕉は奥の細道の道中、連歌の第一人者であった能順が、前田利常の依頼で京都の北野天満宮から小松天満宮の別当として赴任していた。能順を慕っていた芭蕉は、山中温泉で滞在しながら能順にめどうり叶うように加賀藩の高官・生駒万子を頼って依頼していた。目的は芭蕉が早馬の返書に「発句奉納」と記しているところから、小松天満宮へ俳句を奉納する目的があった。許されて小松に立ち戻る。しかし、なぜか発句奉納は叶えられなかった。この理由は後に述べるとして、会見は行われたようだが、芭蕉も能順も、そして、関わった人々全てがこの会見の結果を書き残さなかった。それゆえ、このいきさつは後世に様々な憶測をよぶこととなった。

 この地は連歌の天才能順と俳諧の天才芭蕉が出会った決定的瞬間の場所である。日本文学史に残る遺跡を後世に残す事は、我々の使命でもある。時に元禄二年八月六日(1689,9,19)であった。

 この日から200年たった1989,11,3日、叶えられなかった俳句奉納を、不肖私がかわって果たそうとこの句碑を建てさせていただいた。連歌も俳句も芸術の分野として認知された同格のものとなった現在、小松天満宮様には快く私の申し出をお受けいただきました。数ある芭蕉の句碑の中でも、芭蕉の想いに替わって建てられた句碑はそうざらにはないだろうと、自負しています。

 詳細は私の著書「奥の細道 空白の一日」をご覧下さい。図書館にあります。

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